• 2019.2.5 長浜の風景
  • 菅浦

菅浦入門


琵琶湖の湖岸に沿う曲がりくねった1本道。車でひたすら走らせるものの道中建物はほとんどなく、「本当にこの先に集落があるのだろうか」と不安になった頃、家々が見えてきます。ここが菅浦です。
湖の浜と平行するように路地が通り、民家が並んで建っています。背後の山は、迫ってくるという表現がまさにふさわしい感じ。

山すそと琵琶湖の浜の間のわずかの平地に家々が集まる

 

ほんの50数年前まで、菅浦の人たちが市街に出るための主な足は船だったと、住民の島内悦路さん(70)と自治会長の前田浩一さん(56)が教えてくれました。

集落のたどってきた歴史と現在について、島内さん(右)と前田さんにお話を聞かせていただいた

「今通ってきはった湖岸の道はね、昭和30年代後半に砂利道として通れるようになって昭和46年にアスファルトに舗装されたんです。だから私らの子どもの頃、終戦から昭和30年代前半頃までは、大浦にある小学校に山越えで通ってたんです。少し年上の先輩らは通学に履いていくぞうりも自分で作っておられた」と島内さん。

 

「陸の孤島」とも呼ばれる地ゆえに、独特の歴史と文化をはぐくんできた地。2014年には、「菅浦の湖岸集落景観」として重要文化的景観に選定され、さらに2018年には集落に伝わる「菅浦文書」が国宝に指定されました。

重要文化的景観「菅浦の湖岸集落景観」 平成26年(2014)選定
菅浦は、葛籠尾崎と呼ばれる琵琶湖にせり出した半島の入り江にある。集落の三方を山々に囲まれ、昭和30年代まで他所に行き来するには、琵琶湖を船で渡る湖上交通か、険しい山道を越えての方法しかなかった。
限られた平地という地形条件のなかで、時代に合わせてなりわいを農業・林業・果樹栽培・養蚕やタバコ栽培などと転換させてきた。その名残りが点々と残る。
また、集落東西の端にそれぞれ立つ「四足門」は集落の内と外を区切ったもので、いわば結界。自分たちの村は自分たちで守る暮らしを続けてきた菅浦のシンボル的存在といえる。

結界として集落の境界に設けられた四足門


国宝 菅浦文書 平成30年(2018)指定
鎌倉時代から江戸時代にかけて菅浦に伝来した1281点の共有文書。室町時代の村の規則を定めた掟や、田畑の所有を巡る隣村との争いについてなどが記されている。
文書からは、村のルールは村で決め、裁判所や警察の役割を村が果たし、外部の支配に屈しない高度な自治の仕組み「惣」を形成していったことがわかる。戦国時代以降、領主浅井氏や幕府の支配下にあっても、自立の精神は受け継がれていった。
一般的に古文書の多くは、役人や武士、公家、寺院によるものが多いなか、当時の村の暮らしが住民自身によって記録された、日本を代表する中世村落文書と言え、庶民が遺した文化財が国宝に指定されたことも例のないこととされる。

 

 

「今、漁をしているのは5,6軒かな。前は20軒ほどはあったと思う。湖岸の集落やから漁が主な仕事やと思われがちなんやけど、実はそうでもないんやわ」

湖でのなりわいは、漁はもちろんかつては舟運も行ってきた

舟運のほか、山の斜面を利用してさまざまな作物を育て生計を立ててきたこともこの地の特徴。もう栽培されなくはなってしまいましたが、油の原料となるアブラギリ、養蚕の飼料となるクワノキ、旧専売公社からの委託を受けてのタバコの栽培など、社会や経済のニーズにあわせて手がけるものを変えていきました。
滋賀でも最北端に位置するため、「非常に寒い」「雪が多い」というイメージもありますが、西からの陽当たりは抜群。土地の条件を生かしてかんきつ類の栽培は今でもさかんで、冬場に集落を歩くとたわわな実をつけています。なかでもハッサクは地元での特産加工品に利用されています。

集落のあちこちで、おいしそうな果実のある風景が見られる

 

ところで、お二人からたびたび登場したフレーズが「長老衆」。
現在長浜市では集落や地区ごとに自治会が構成され、その代表として自治会長や役員がいますが、これとは別にあてられる菅浦独特の役職制度。集落内での決めごとに関わり、神事や仏事には責任者的な位置づけとなります。

中世の頃から集落は東西に分かれていて、それぞれから2人の長老、計4人が選出されてきましたが、今は集落全体として4人を選んでいます。男性で年齢の上の人から役が当たり、2年任期。島内さんは過去2度長老に就いているのだとか。
また須賀神社には宮司がおらず、「村神主」として住民から9人が選ばれ、年ごとに交代します。

大晦日は須賀神社に参拝する習わしがあり、縁起物として参拝者に配られる「年の実」は村神主が作る

 

「今の戸数は60軒くらいかな。中世の頃からずっと100軒ほどやったのが、やっぱり減ってきてますね」と、前田さん。
約1000年にわたって戸数に大きな変化がなかったのは、跡取り以外は他の土地に移るという村の慣習が守られてきたことも影響しているようです。
ただ、現在は若い人たちは勤め先や買い物にアクセスの良い近隣の集落に家を建てて暮らすようになっていて、帰ってくるのは盆や正月。ふだんの菅浦は、しんと静かで人通りもわずかです。

スーパー、コンビニなどもない。高齢過疎化が確実に進行している

 

自分たちの集落は自分たちで守り、維持することで村の結束を強めてきた菅浦にとっても、今の時代にこれを実践することは難しくなっています。それでもこの地が受け継いできた伝統や史跡に強く惹かれて訪れる人が絶ちません。
平成26年には、島内さんや集落役員8人で、案内団体「惣村の会」を設立し、訪れた人に向けたガイドを行っています。
歴史の重なりのうえに今の暮らしがあること。風景や景色は暮らしの蓄積のなかで構成されていくこと。
当たり前だけれどなかなか気づけないことを、この集落は教えてくれます。

惣村の会 ガイド申込みは、予約制。保存協力金として団体の場合1名800円、個人は1000円(原則4人以上)
問い合わせ 080-8339-5216

この風景を失わないために

実は、平成30年8月に来た台風21号による風雨で、集落内の石垣が多数崩壊する甚大な被害が出ました。
集落には主に2本の道が延びていて、そのうち浜側の道には、琵琶湖が荒れたときの波よけとして石垣が積まれています。これもまた菅浦ならではの暮らしの知恵として維持されてきたもの。重要文化的景観に選定された構成要素の一つとなっています。
崩壊した石垣を積み直すには、莫大な費用がかかってきます。「国からの補助を差し引いても、住民の負担が大きすぎる」と島内さんたちは頭を抱えます。

平成30年8月の台風で崩壊してしまった石垣。このポイント以外にも被害があり、ほとんどがまだそのままになっている

かつて第2室戸台風(昭和36年)で同様の被害が出たとき、崩壊した石垣の一部はコンクリート塀として新設したところもありました。当時の状況ではやむを得なかった措置なはずですが、これ以上、菅浦にしかない風景を失うことは避けたい……。そのためにできることをしたいと考えています。

ご協力の問い合わせなどは
長浜市市民協働部歴史遺産課
電話: 0749-65-6510

矢島絢子
この記事を書いた人
矢島絢子
学生時代+数年を県外で過ごしUターン。冬の寒さをどうやって乗り切るかが毎年の課題。自転車に乗って肌寒さを感じなくなったときが湖北の本当の春到来だと信じています。そんな自転車の速度で感じるような、長浜の空気を伝えて行きます。