山門水源の森を次の世代に引き継ぐ会 前事務局長
藤本秀弘さん
山門(やまかど)水源の森は長浜市の北部、福井県境にある広さ63.5haの森です。森の中央には4万年前にできたとされる県下最大の山門湿原があり、その生態系の豊かさが注目されるとともに、山門水源の森を次の世代に引き継ぐ会を中心に生物多様性を維持するための保全が進められています。
自然豊かなこの森の魅力に注目して、今では京阪神を中心に年間約5,000人の来訪者が訪れます。私自身は2009年からこの森の活動に参加していますが、どうしてこの森が現在のようにしっかりと保全され、多くの来訪者がおとずれるようになったのか。その経緯を知りたいと思い、今回、山門水源の森を次の世代に引き継ぐ会の前事務局長であり、活動を立ち上げてこられた藤本秀弘さんにお話を聞くことにしました。現在の活動に至った歴史、これからの森のありようについて、藤本さん自身のことも含めてお話を伺うことができました。
藤本さんは1943年生まれの74歳。多賀の炭焼き職人の息子として生まれました。地元の大学の教育学部に進学。分校の教師になって休みの日には植えたヒノキやスギの手入れをさせようというご両親の願いも感じつつ、全国の学生と触れ合う機会を得てもっと勉強をしたいと思うようになったそうです。
学生時代は地学を専攻。就職先は少しでも研究ができる環境にと、指導教官の勧めで(というか勝手に決められたそうですが)京都大学にほど近い私立高校の教師に。しかも週に半日の研究日をその教官が確保してきたというから驚きです。同僚の講師は京都大学の院生ばかり、大変アカデミックな環境で藤本さんはさらなる刺激を受けます。当時は公立の中学、高校でも学術的な研究をする教師が珍しくなかった時代、特に高校の教師には大学的な要素が残っていました。
そのような教師生活のなかで、1987年に当時事務局を務めていた「滋賀自然環境研究会」で総合調査の場を模索していたところ、琵琶湖研究所の吉良竜夫さんの勧めもあり、県下最大の湿原でありながら、当時はまだ、その全貌が明らかになっていなかった山門湿原の調査を始めることになりました。参加者は、植物、昆虫、野鳥、気象などを専門とする約10名。なかには藤本さんの元教え子も参加していたそうです。
毎月の定期調査は時に寝泊まりをして24時間調査をおこなうほど熱心なものでした。そして調査を進めるごとにこの湿原の貴重さとそれを残していくことへの想いを強くしていきました。そんななか1990年に山門湿原のゴルフ場開発の計画が報道されます。藤本さんたちは危機を感じ1991年に地元西浅井町へ湿原の重要性を報告し、保全の要望書を提出します。さらにそれまでの調査結果を1992年に「山門湿原の自然」という冊子にまとめました。
その影響もあり湿原をふくむ森の重要性が認められ1996年には県が買い上げ公有地化されたことで、開発の危険はなくなりました。さらに1999年の仮発足を経て2001年には「山門水源の森を次の世代に引き継ぐ会」が発足します。会の中では藤本さんを会長にという声もあったようですが、会長は地元の方に担当していただいたそうです。これはよそ者が来て勝手にやっているのではなく、地元があってこその活動だということを強く意識されてのことだそうです。
会はゴルフ場用の芝栽培を目的とした湿原の埋め立てで、乾燥化が進んでいた湿原の再生作業や、薪炭林としての役割を終え人が入らなくなった結果、木が茂り光が少なくなったため激減したササユリの復活などに取り組みます。その結果、保全を進めることで自然が再生することを実証していきました。
藤本さんは山門水源の森の活動に専念するため定年を待たず60歳で退職。以後、森の保全に全力を注ぎ会の活動は昨年15周年を迎えました。74歳の今でも年間約200日は森に通い、若い会員と一緒に汗を流し保全活動に勤しんでいます。森の今後の理想をお聞きしたところ、薪炭林時代に戻すべき、林は更新していかないと多様性は保てないとのこと。山門水源の森をさらに引き継いでいくことの大切さを痛感するとともに、次の世代である私たちはどうやって森を守っていけばいいのかを改めて問いかけられました。