• 2018.12.25

家庭工場のある風景


集落を歩いていると、家々に隣接するような形での小さな小屋が点々とあることに気づきます。
入口には「第〇作業所」と札がかかっていて、〇には建物の数を表す数字が入ります。
カーテンが閉じられひっそりとしているところもあれば、機械の音が響いているところもあります。

住居に隣接するように建つ

 

これが、菅浦ならではの景観のひとつとして挙げられる「ヤンマー家庭工場」。

ヤンマーといえば、農機具や建機のメーカー。創業者の山岡孫吉がここ長浜出身で、市内には関連工場や事業所、さらにはミュージアムまであります。ただ、家庭工場の形態をとるのはここ菅浦のみ。
「菅浦には、ヤンマーと家庭工場の間に立つ『共栄会』という組織があります。この共栄会が家庭工場へ内職として業務を委託しています」
と、最初に説明してくれたのが、ヤンマー木之本工場の田中智(さとる)さん。
木之本工場は一帯で一番大きなヤンマーの事業所で、ここから共栄会にディーゼルエンジンの部品加工を委託しているそうです。

 

共栄会は、菅浦自治会長やヤンマーOBなどで構成。その会長を務めるのが菅浦住民の浅野吉蔵さんです。

菅浦集落とヤンマーの調整役、浅野さん

 

「各作業所の様子を見て回ったり、ヤンマーと菅浦集落との間に立ったり。いわば調整役みたいなもの」と浅野さん。
会長の就任にあたっては菅浦自治会の承認を得る必要があるそうで、浅野さんは任命を受けて5年目。
こうした説明から、集落全体としてヤンマーとの関わりを維持しているのがわかります。

家庭工場へ加工委託している部品の一部

 

ヤンマー創始者による半農半工の構想

家庭工場は、創業者孫吉の構想から生まれたものでした。
孫吉の出身は、現在の長浜市高月町東阿辻(ひがしあつじ)。今ものどかな田園風景が広がる地域です。
ヤンマーを創設し事業を拡大していくなかで、孫吉が抱いた理念のひとつが「工業によって農村を振興させる」ことでした。

高月町東阿閉の集落を望む。教会のようなシルエットの建物は集落の公民館で通称「ヤンマー会館」。山岡家が寄贈した

 

この理念をさらに追及したのが、農業などの本業の傍ら家族で分担して部品加工を行うスタイル、つまり家庭工場へとつながっていったのです。

戦後、孫吉はまず市内の石道という集落に家庭工場を設立。続いて、昭和35年に菅浦に同様の家庭工場を設けました。
当時の石道は、主たるなりわいの林業が戦後の混乱で荒廃。また菅浦は陸の孤島とも言われる僻地。生計維持に家庭工場が貢献しました。
「家の隣に作業所があったら出勤しなくて良いし、自分が工場長や。菅浦の立地を考えると大きいことやった」と浅野さんは話します。

琵琶湖から見た菅浦集落。周辺地域から孤立した立地で、昭和30年代以前の他地域へのアクセスは船を使った湖上交通がメインだった

 

石道には今はもう家庭工場はなく、菅浦では16棟の家庭工場があるものの、稼働するのは6棟。
集落の入り口には共同作業所といわれる工場があり、家庭工場の事務所的役割を担いつつ、「指導員」と呼ばれるヤンマーOBなど13人が部品加工に携わっています。

共同作業所

 

家庭工場では、10畳にも満たない小さな空間で磨き込まれた機械を操り調整ボルトを加工していたり、女性2人で軽作業をしていたり。
使われている道具は、もう操れる人が限られているという年代ものもあるそうです。

長年従事している人がほとんどで、流れるように作業を行う

 

 

「今はもうないところもあるけれど、家庭工場のある場所にはシンボルとしてヤマザクラを植えたんですよ」
浅野さんや田中さんにそう教えてもらいました。
半世紀以上にわたって続く、菅浦にしかない働き方。
風景は、その地の暮らしがつくりだすものなのだと改めて気づくのでした。

右からヤンマー木之本工場の田中さん、浅野さん。共同作業所に勤めるOBの方々もいろいろとお話を聞かせてもらった

矢島絢子
この記事を書いた人
矢島絢子
学生時代+数年を県外で過ごしUターン。冬の寒さをどうやって乗り切るかが毎年の課題。自転車に乗って肌寒さを感じなくなったときが湖北の本当の春到来だと信じています。そんな自転車の速度で感じるような、長浜の空気を伝えて行きます。